スローガン/演説(『絶対の宣伝』)

読んでいるうちに、2005年の「郵政解散」後の総選挙のことを思い出しました。


ヒットラーは、『わが闘争』の中で、こんな風に言っている。


宣伝は、語るべき思想を少数にとどめて、それをうまずたゆまず繰返すことが必要である。大衆は、何百ぺんとなく繰返さないと、もっとも簡単な思想でもおぼえこまないものである。大衆にあたえる変化は、ひろめようとする教えの根柢におよぶことはけっしてなく、ただ形式の範囲にとどまる。かくてスローガンは、種々のかたちで示されるべきであるが、しかし、結論としてはかならず一定の不変な公式に要約して示されねばならない。


草森紳一『絶対の宣伝(3) 煽動の方法』, p.131.(太線部引用者)

「聖域なき改革」とか「改革なくして成長なし」とか、まったくこの引用通りです。
そして、演説についても同じく。


アラン・ワイクスはその著『ヒトラー』(渡辺修訳・サンケイ新聞社・一九七一年刊)の中で、「安っぽい演説を何度もやっているうちに、ことばで人をだますことをおぼえた。いいかげんなきまり文句でも、偏執病者のように熱心にしゃべると、そのことばは、まるでゲルマン民族の救済者の吹きならすトランペットの音のように、ひびいたのである」とやや嘲弄気味にのべている。
ヒットラーもはじめから演説の天才ではなかったといいたげである。そもそも「ことばで人をだます」とはどういうことだろう。けっして、嘘八百をならべることではあるまい。ヒットラーは「偏執病者のように熱心にしゃべる」ともいっているが、むしろここに「人をだます」ことの秘密がある。安っぽいなどという批判は知識人の奢りの認識にすぎない。
おそらくこの演説時のヒットラーの言葉はもはや言葉の言葉ではなく、ヒットラーそのものの肉体が露わになり、その肉体が人々を理非もなく呑みこんでしまうということであろう。いわばスキンシップが生じるということであり、ヒットラーの言葉そのものの魅力というより、言葉を吐くヒットラーの肉体を見ただけで、もう大衆は興奮するのであり、そうなると声の荘重さとか思考の明白さというものは、副次的な要素になりさがってしまい、それが真の演説の力である
こうもアラン・ワイクスはいう。


かれの演説に耳をかたむける何千もの聴衆のあいだには、この“救済者”にたいして一種の宗教的な崇拝の念がひろまった。ヒトラーが演説するにつれて、聴衆のあいだに一種のヒステリア(病的興奮)現象がうまれた。この現象は、ヒトラー自身が指摘しているように、自然発生的にうまれてくるものではなく、“あらゆる人間の弱点をこまかく計算した戦術で、成功の確率まちがいなし”というものであった。


同, p.103.(太線部引用者)