『合コンの社会学』

最近、書店で目立つところにディスプレイされている『合コンの社会学』。
ものの2〜3時間でサラッと読めてしまいますが、面白い本でした。


著者は「合コン」というものを、一方で、恋愛結婚こそが幸福だとする
「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」に支配された場だと考え、
他方で、弱体化した「職縁結婚」のシステムを「友縁」によって補完・代替する
現代的なシステムであると考えています。


そして、「ロマンティック・ラブ」を担わなければならないために、「合コン」は、
事前に準備された場にも関わらず「偶然/運命の出会い」が求められるという矛盾があり、
そのため、実社会での格差などを見ないようにする(本当の関心はそこなのに)など、
禁忌の事項を共有する「相互行為儀礼」だと読み解かれます。


繰り返すが、合コンはロマンティック・ラブ幻想を助長する、社会的な装置だ。私たちが、社会経済的ファクターから完全に自由になり、定められた位置を超えて自由につがうようにならないかぎり、同階層婚を量産するためのこの装置はなくならない。同時に合コンは、美しい出逢いの物語を紡ぐことを可能にしてくれる。私たちが物語それ自体を手放し、結婚のなまなましい現実を直に生きるようにならないかぎり、やはり合コンはなくならない。


北村文阿部真大『合コンの社会学』(2007年)

「合コン」をこうした視点から読み解くのは、
ジェンダー論や「ロマンティック・ラブ」が盛んに論じられた80年代以降の一部の社会学
まさしく延長線上にあり、非常にストレートな議論です。


ところで、次の引用箇所は決して「合コン」という場に留まらず、
広く現代社会にあてはまる、そしてそれを読み解くのに示唆に富む部分かと思いました。


合コンについては、だから(註:合コンとは与えられた役割の「遂行」と「演技」が求められる「パフォーマンス」の場であるから)、「キャラクター」「キャラ」ということばが多用される。「パーソナリティ」ではない。その人に特徴的な性質ではなくて、その場で選びとられ、演じられる人柄のことだ。


同書.

合コンの社会学 (光文社新書)

合コンの社会学 (光文社新書)