「音の地図」

私が地図というものに心惹かれてしまうのは、
それが作り手(あるいは見る者)が世界を把握する手段としたもので、
ということは極めて精神的な活動の産物だと思うからです。


であれば、世界の把握の表現というものは、
道順や物理的な距離というものだけにはとどまりません。


小学校の社会の時間に見たのだったか、東京からの所要時間で作った
いびつな形の日本地図を見たことがありますが、
あれも立派な、ひとつの「世界の捉えなおし方」だと思うし、
その他の尺度・感覚によったものがさまざまあっていいと思います。


下で紹介するのは辻仁成の小説に出てくる「空想の産物」。
どこで何の音が聴こえるかを、小説の主人公は地図化していきます。


地図は数種類あった。最初に作ったものは、聞こえた音を小さな点に全て色分けしたもので、どこで何が聞こえたかがすぐに分かるよう、三〇種類ほどの音の点がS区の地図上に記されているものだった。自然な音を柔らかい配色で、人工的な音を硬めの配色にして、音の分布を分かるようにしたものである。
そのデータをもとに、音の範囲図も作った。どういう音がどの範囲で聞こえているかを表したもので、これは地域別にして部分的な地図となった。例えば金属工場の音ならば、機械の音が聞こえる範囲の最外端しかも時間帯――朝、昼、晩――によって、一目でどこでどんな音が聞こえているのかが分かる仕組みになっていた。準工業地帯での範囲図ならば、金属工場や硝子工場、それに製缶工場などの円が描かれていて、それらは時々交わっていた。


辻仁成「音の地図」(1996年、『TOKYOデシベル』所収)

そして、それぞれの尺度をもって作られた地図は、本来的にパーソナルなもの。
やがて区内で梵鐘の聞こえる地域を地図化した、この小説の主人公が、
その地図が区内に流布したのちに述べる言葉は、まさにそれを言い表しています。

「自分にとってどういうふうに世界が聞こえているのか、それだけ分かればよかったんだ。俺が作った鐘の音の地図を見て、みんなが同じようにこの世界に耳を傾けたりするのはいやだ。俺はただ自分の耳に聞こえている世界がどんな形をしているのかを知りたかっただけなんだ。みんなが知りたければ自分の耳で自分の地図を作ればいい」


もちろん作品を読めばわかる通り、「鐘の音の地図」は主人公の着想ではあるけど、
何人かの協力のもとで作っているわけなので、上の言葉はややエゴであって、
その独占欲といったものは彼の恋人への姿勢とも皮肉にも重なるのですが、
とはいえ、地図が精神の産物であるならば、それは多様であってよいわけです。


TOKYOデシベル (文春文庫)

TOKYOデシベル (文春文庫)