『nu』(vol.02)から

早速読み出した『nu』ですが、とてもおもしろい。
「80年代と90年代」の関係が「60年代と70年代」の関係に似ていると語るなど、
対談している二人が自分たちの世代意識について語っていておもしろいです。


そのなかからインターネットのもたらした変化について、
批評や創作を生業とする人のサイドから語られています。


宇川(直宏): ひとつ言えるのは、インターネット以降――まあ、その時代が到来した九五年以降って敢えて言いますけど、情報があらゆる人たちに対して平等に開放されちゃったじゃないですか。それでも九〇年代ってギリギリ情報がお金になってたんですよ。例えば「現地録音」っていう実験課題があったら、そのレポートを報告するためのレアな症例をたくさん引っぱり出してきて、マスメディアに発表することで“仕事”が成立したんだけど、完全に繋ぎっぱなしでインターネットが定着してしまった今、それはもはや出来ないじゃないですか。オーソリティー・レポートの発表の場であったマスメディアが威厳を失って、個人個人が十分マニアックなメディアとして成り変(原文ママ)わってしまったから。
佐々木(敦): そうだね。最近思うことなんだけど、昔だったら「オタク」っていう言葉は、知識とか情報を自分でいろんな所から探してきて、自分のなかに溜め込むってことだったわけじゃない。それを引き出しにしていろいろ考えられたんだけど、インターネット以後はそれが外に出ちゃったんで、べつに覚えてなくてもいいってことになっちゃったんだよね。その違いってかなり大きくて。ハードディスクとメモリが外に出ちゃってる。もしかすると、だからこそ、センスとか才能が本当に問われる時代になったのかもしれない。
宇川: うん、絶対あぶり出される。
佐々木: 八〇年代、九〇年代は他人がまだ知らない情報を知ってることが強みになった。だから俺なんかでも、みんなが知らない音楽を紹介することが売りになったの。でもそれはもうできないと思ってる。
宇川: いつの時代も局部に関しては、大衆の方がめちゃくちゃ詳しいから、まあ、インターネットが登場する以前は独自のアーカイヴを作成することがその人のパーソナリティになっていたんだけれど、アーカイヴがすべての人と共有することを前提に作り上げていくものになってしまった今、情報そのものの価値が平均化されてしまい、かつての“深く知ってる”だけのパーソナリティが無効になってしまったんですよね、いきなり。どんな題目においても、今日、急にマニアックになることが実現可能になってしまった。もちろん、そんな表面的な奴は死んでほしいワケですが(笑)。でも、この現象はすべてのクリエイティヴに影響してるし、「これからの時代、何を考え、何を実行しないといけないのか?」についてのヒントになる部分だと思う。


対談 佐々木敦×宇川直宏, 『nu』vol.02, pp.6-7.

関連エントリ:「『nu』」(2008年7月13日)