「事実を加工する作業」

再度、森達也の著書からヌキガキ。



改めて言う。編集は事実を加工する作業なのだ。そもそもの素材は事実でも、カメラが任意のフレームで切り取ることで撮影者の主観の産物となった現実は、更に編集作業を経て、新たな作為を二重三重に刻印される。それがドキュメンタリーであり、映像表現の宿命でもある。


森達也『「A」』(2000年、文庫版2002年).


ここ数年、映画市場ではドキュメンタリージャンルが空前のアップトレンド。
ただし、ドキュメンタリーは決してそのまま真実ではないことを
作り手も観る者も強く意識しておかなくてはなりません。


そういえば、ドキュメンタリー作品が本質的に孕んでいる危うさについて、
最近蓮實重彦も言及していました。ヌキガキ。



蓮實: フィクションとノンフィクションに関しては、立体的な世界が3次元から2次元のイメージになる瞬間にドキュメントというものは消滅していると思う。つまり次元の違うところにいわば移行してしまった光と陰の陰影というものが新たに作り出すものは、フィクションと呼ばざるをえない。フィクションと呼ぶのが無理ならばそれを発生期の現実と呼んでもいいんですけれども、第2の現実があって、第1の現実の再現とかそういうものではない、だからそのときにキャメラを回すことがいかに怖いことかということを、つまり自分がキャメラを回すときに世界を変質させてしまうことを、どれほどの人々が自覚しているかというと、最近のドキュメンタリーの多くは、世界はキャメラを回せば映ると思っている。

それは映画ではなくテレビの問題だと思うんです。キャメラを回せば映るということを絶対的な自己正当化してやってるわけですね。ところが映画はそのような自己正当化は必要としていないんです。おそらく昔であったならば、非常に貴重なフィルムを無駄にしまいというような配慮さえが現実を変容させる一つのキッカケだったと思うんです。今年山形ドキュメンタリー映画祭で見た作品の80%がビデオ作品だったんですよ。撮れればなんでも映り、回せば撮れてしまうということが、若干ドキュメンタリーの世界を覆いはじめたのかなという心配がありましたね。

でも最大の怖さは、テクノロジーの発達によって恐れもなく世界を把握できると思ってしまったその瞬間から、フィクションもドキュメンタリーも衰退の道を辿るということじゃないかなと危惧しています。


蓮實重彦×菊地成孔 対談「ドキュメンタリーとフィクションのはざまで鳴る“音”。」
(『エスクァイア日本版』2008年2月号、適宜改行を加えて引用)


関連エントリ:「モザイク」(2008.6.15)

「A」 マスコミが報道しなかったオウムの素顔 (角川文庫)

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Esquire (エスクァイア) 日本版 2008年 02月号 [雑誌]

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