「モザイク」

ここのところ森達也の著作を続けて読んでいるのですが、
「メディア」というもののあり方や、そしてそれを考えるうえで見ざるをえない
「メディアの力・危なさ」について森はとても意識的で、重要な作家です。


久々のヌキガキはオウムを撮ったドキュメンタリー映画『A』の撮影日誌的な著作
『「A」』から、「モザイク」という手法について。
彼は表現手法の持つ記号性のシフトについてもとても意識的です。



モザイクについては、この作品において一切使わないという方針を、僕は荒木浩への手紙に書いていた。基本的に僕は、モザイクという手法は、あくまでも窮余の選択のはずと思っている。しかし最近ではモザイクにとどまらず、バラエティ番組の影響なのか、普通に聞き取れるコメントにさえテロップをつけることも流行している。結果、モザイクだらけでどこが顔だか頭だかわからない映像に、声も機械的に変え、そしてテロップだけが目立つというVTRが、特にニュースやワイドショーでは多くなっている。
そんな手法がまさしく開花し定着したのが一連のオウム報道だ。その帰結として、モザイクは対象となる人や場所の固有性を隠すという本来の機能よりも、「負の要素を持つ人」という一つの記号としての意味を持ち始めた。記号は言うまでもなく既成の概念に結びつく。


森達也『「A」』(2000年、文庫版2002年).

「A」 マスコミが報道しなかったオウムの素顔 (角川文庫)

「A」 マスコミが報道しなかったオウムの素顔 (角川文庫)