「モノの破壊」

自分のかつての備忘録からヌキガキ。


消費社会が存在するためにはモノが必要である。もっと正確にいえば、モノの破壊が必要である。
モノの『使用』はその緩慢な消耗を招くだけだが、急激な消耗において創造される価値ははるかに大きなものとなる。それゆえ破壊は根本的に生産の対極であって、消費は両者の中間項でしかない。
消費は自らを乗り越えて破壊に変容しようとする強い傾向をもっている。そして、この点においてこそ、消費は意味あるものとなるのである。


ボードリヤール『消費社会の神話と構造』(1970年)
(註:斜体字は邦訳書傍点部分、太字部分は引用者による強調)

その少し前には、宣伝・広告(の目的)についての言及があります。


ただひとつの目的のために、かなりの額の浪費が宣伝によって実現されるが、この目的とは、モノの使用価値を増加するのではなくて奪い取ること、つまり、モノを流行としての価値や急テンポの更新に従わせることによって、モノの価値=時間を奪い取ることである。


同書


消費社会における広告の役割(本質的な、あるいは結果的な)が示されています。


「消費」の行き着く先が「破壊」であり、「差異化」であるなら、
広告の持たされた役割も単に新たな情報を「広く告げる」ということに留まらず、
古きもの(あるいは従来のモノ)を更新する(それも強く)いささか暴力的なもの。


…と、昨夏の私の備忘録には、そう書き留められていました。


消費社会の神話と構造 普及版

消費社会の神話と構造 普及版