まばたきのシャッター機能。「空」のこと。

松の内がまだ明けぬうちに、近親者に不幸があったため、
ここ数日、更新をしないままでおりました。
その間に思ったことの一部を、
とりとめがないままですが、覚書として書いておこうと思います。


日蝕』(1998年、翌年芥川賞受賞)で華々しく文壇に現れた平野啓一郎は、
架空のメディアアート作品に寄せた評論、という形をとったメタ作品の中で
次のようなことを書いています。

人間はつまり、生まれて死ぬまで、ほんの短い数分間ですら、世界を連続した姿で見続けることが出来ず、絶えず瞼によって時間の中で切り刻まれた形でしか目にすることが出来ないのである。


平野啓一郎『バベルのコンピューター』(2004年)

この一節を、初めて読んだときはすんなりと納得していたのですが、
ここ数日で、そうではないのではないかと思うようになりました。


故人の横たわった体を見ているときよりも、
その後、目を閉じて合掌をしているときの方が涙が湧いたからです。


まばたきと、合掌をするときに目を閉じることとは違うかもしれません。


でも、それはただ「世界の連続を切り刻む」だけではなく、
その世界を解釈し、脳内の情報と照合し、理解するために
大事な瞬間なのではないかとも思ったわけです。


それはもしかしたら銀塩のカメラで世界を切り取るとき、
シャッターを切って、フィルムを巻き上げる、
あの手順とも似ているのではないかと、ふと感じました。


まばたきは、それまでのひとつながりの時間を一度区切って、
記憶のフィルムに像を固着させるために必要なシャッターなのではないか、と。
もちろん、視覚だけで世界を捉えているのではないですから、
目をつぶるのは、視覚以外を特に働かせるための瞬間でもあるのでしょう。



もうひとつは、精進落としのとき、隣に座られた御住職と話して感じたこと。


御住職は人が亡くなってもその心は生き続けるという内容を話した後、
物理学を引き合いに出して、心というものは質量はゼロだけれど、
エネルギーが無限大のものだ、ということをおっしゃっていました。


私も、おそらく御住職も物理学には明るくないですし、
一般的な物理学の考えで「エネルギー=熱量」とするならば、
上のことは正しくないと思うのですが、すっと心に入ってきた言葉でした。


幼い頃から、別に特に大きな病気もしたことがないというのに、
自分が死んだらどうなってしまうのか、と考えた時期があって、
そのとき、どうしても体がなくなっても自分の考えていることなどが
消えていってしまうことが理解しかねたし、
それがまったく消えてしまうことをおそろしく思ったことを記憶しています。


でも、「質量がゼロでもエネルギーがあるから心は生き続ける」ということは
自分としては腹に落ちたのです。


そしてこれは仏教でいう「空(くう)」の思想ともつながると思えます。
般若心経で「色即是空、空即是色」といわれている、あの「空」です。


高校や大学の授業で「空」を習うとき、それが「無」とどう異なるのか、
私には確かには理解できなかったのですが、
法王ダライ・ラマはこれに対して明解な説明をしています。


シューニャ(空)について述べてみよう。シューニャはサンスクリット語で空っぽの状態をさす。このシューニャについて知るには、いったい何が空なのか、何が存在しないのか、と考えることが大切だ。
たとえば、ここには象がいない、と考えてみよう。すなわち象なるものの非存在がここにある。われわれは、象なるものの非存在を理解できる。感じられる。知ることができる。
象なるものの非存在を知るには、まずそれに先立って、象とはいかなるものかという知識がなければならない。象のなんたるかを知ることで、象の非存在を確かなものとすることができる。
象をまったく知らないものにとって、ここに象の非存在が存在すると言ったところで、それはあやふやなものでしかない。
ここで述べたたとえと同じく、空とは、独立して存在するものの不在を意味する。シューニャ、空の本来の意味は、何もないというのではない。


大谷幸三(編)『ダライ・ラマが語る般若心経』(2006年、原書2004年)

いまここになくとも、その存在が理解できるから、
ここにない、ということがわかる。
それは逆に、ここではなくとも存在するということでもあります。


心が生き続ける、というのはきっとそういうことなんだと思います。



今日はまったくとりとめないですが。


滴り落ちる時計たちの波紋

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ダライ・ラマが語る般若心経

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