『近代日本と三井物産』

少し体調を崩したのをいいことに、家でじっくりと本を読むことにした昨日読んだ本。


三井物産という会社が世界的にまれな形態である「総合商社」という形になった理由を、
草創期(明治前期)の事業展開や政府の政策をなぞったり、同業との比較で論じています。
終章にもあるように、著者は3点ほどにその理由をまとめています。


3点のうちの1点として、著者は人的なネットワークを挙げています。
まず第三章で、草創期の物産の海外拠点に派遣された社員について分析されます。


(略)明治前期のいまだ商学系高等教育機関の整備が緒につきはじめた段階では、貿易をはじめとする海外業務に従事するような企業のあいだでは、洋行経験を持ち、しかも海外で何らかの通商事務に関与した人材をめぐって、一種の争奪戦が展開されていたという事実が浮上してくる。そしてそれらの企業に対して、そのような貴重な人材の一大供給減となっていたものこそが、明治政府であった。政府官吏に洋行、ならびに海外での通商事務に関与させる契機をもたらしたのは、在外領事館への配属、あるいは政府が当時積極的に参加していた万国博覧会の事務官への任命であった。(略)
当時、いまだ海外渡航がきわめて珍しかった日本において、万国博覧会は政府官吏のみならず、民間人に対しても、渡航の機会を与える大きな契機になっていたということも指摘できよう。(略)
こうして見ると、このような海外業務を担当しうる希少性を帯びた人材をめぐって、企業間で勧誘合戦が繰り広げられた結果、そこにはごく小規模ながらも組織間を人材が移動する、きわめて重要で特殊な労働市場が存在したことも指摘できるのである。


木山『近代日本と三井物産』pp.95-96.


そして、三井物産が商権を御用商売から民間商売に移していく際、
さらにそこには人的コネクションの効果があったのではないかと探る著者は、
初代社長・益田孝は渋沢栄一など旧幕臣のネットワークをフルに使ったと論じます。


確かに著者のまとめるところに従えば、物産には徳川慶喜に近い旧幕臣がまとまっていて、
無論そこには、


旧幕期、幕府の教育研究水準は当然、国内随一であり、特に幕末期の幕府は、西洋式の近代的科学技術や西洋語学などの学習・摂取にきわめて熱心で、また優秀な人材の層も厚い
ということがあったはずです。


この辺りを読み進めながら、大戦後の電通が旧満鉄関係者を多く採用したことを重ねました。


時代が変わるときには、旧時代の知識層がガラッと動く。
それはたとえばこういうことだったりするのかもしれないけれど、どうでしょうね。