「空気の『濃い』時代から『薄い』時代に」

ひさびさに目にした朝日新聞
文字の級数が大きくなったことで読みごたえが減りましたが、
3面に掲載されていた見田宗介のインタビュー記事はよいと思いました。


内容は6月の秋葉原無差別殺傷事件についての所感。


68年の永山則夫(当時19歳、以下N)による連続射殺事件があります。加藤智大被告(当時25歳、以下K)による今回の事件と同様、当時の日本を震撼させたものです。二つの事件には、共通する面が多いにもかかわらず、核心部分がまったく対照的です。それが、戦後日本社会の空気が、すっかり入れ替わり、ある限界に達していることを示しているからです。
どこが似ているか。ごく表面的に言うと、共に、本州最北端の青森県出身の若者が、東京で事件を起こした。(略)当然、そこには、貧困や差別、階級構造の問題があります。もっと重要なことは、事件の核心が、そんなことにはないことです。貧困から逃れるなら強盗も考えられるし、差別ならある種の反体制行動もある。でも、二つの事件は共に、動機がとてもわかりにくい。
このわかりにくさがポイントです。犯罪の核に、「実存的」な、生き方というか、アイデンティティーの問題が潜んでいるからです。だから、今回の事件の残酷さにもかかわらず、貧困層だけでなく、若い正社員や大学生からある種の共感がネットなどに寄せられたんだ、と思う。


では、決定的な違いはどこか。「実存的」な核の中身が、正反対なのです
一つは、未来の消滅です。Nの場合、希望に胸を膨らませて上京してきた。(略)Nは例外ではなく、70年代くらいまでの若者のほとんどは中身は様々ですが、今より素晴らしい未来があるということは、前提でした。
Kの場合、東京へのあこがれは最初から持っていない。「とりあえず安定した生活を」と、アルバイトや派遣社員で、国内を転々とした後、静岡で働いていて、人々の注目を集める場所として東京を選んだだけです。僕のゼミの学生の話をずっと聞いていても、夢や未来に対する想像力のスケールがどんどんしぼんで、現実的になっている。今、素晴らしい未来が必ずくると思っている若者は、ほとんどいないのでは。
もう一つの違いは、人々の「まなざし」に関してです。中卒、貧困家庭出身、青森弁など、Nに世間の人々の「まなざし」が、とりもちのようにまとわりつき、自由に生きることを許さなかったことに苦しみます。
Kの場合は、反対のいわば「まなざし」の不在の地獄です。ネットにも書いていますが、これまで自分はだれからも必要とされなかったと思いこむ。犯行予告をしても、誰からも相手にされない。「まなざし」の不在に耐えきれず、Kにとって一番注目されると思う秋葉原で、犯行を通じて、僕はここに居るんだ、と叫ぶしかなかった。


朝日新聞, 2008年12月31日.(太字部は引用者による強調)

続く部分で、村上春樹の言葉を引きながら、
見田氏はかつての空気が「濃い時代」から「薄い時代」にすっかりなったと言います。
現実感は不在で、そしてついにはヴァーチュアルをも肯定的に捉えるようになる。
しかしこの見田氏の、しばしば引用される


「理想の時代」:敗戦〜60年ごろ
  ↓
「夢の時代」:70年代前半まで
  ↓
「虚構の時代」:90年代前半まで
という構図の後にくる「バーチャルの時代」にも無理が現れてきている、と
秋葉原の事件から見田氏は考えます。


「薄くなりすぎ」、また、仮想世界に居直った「バーチャルな時代」の中で、リアリティーというか、古典的な現実への飢えが、この国に充満し始めたことが明らかになり、「バーチャルな時代」が臨界点に達したということを、Kの事件は象徴しています。


同.

思うに、リアリティーから離れた「パラダイス」としてのヴァーチュアルは、

の二つから崩れようとしているように思います。
リアルだって苦しい、でもヴァーチュアルでも苦しいという状況も現れるでしょう。


解決の糸口を探ることは容易ではないですが、
「居場所の確保」は公的なますます喫緊の課題となるのではないかと思います。